千葉大学学術リソースコレクション c-arc

森鷗外の書簡

千葉大学附属図書館では、森鷗外(1862-1922)直筆の書簡を所蔵しています。元附属図書館長・田中康一(館長在任期間1956.2~1959.1)がこの手紙の宛先人である小池堅治*から譲り受けたものです。小池堅治はドイツ文学者で、当時第二高等学校(現東北大学)の教職にあり、のちに千葉大学が設置されるとまもなく文理学部(当時)独語の非常勤講師に迎えられました。この書簡は、小池堅治が『舞姫』のドイツ語訳について刊行の許可を申し出た際の、鷗外(森林太郎)からの返信となります(大正5年9月27日付)。このドイツ語訳本は夏目漱石の『倫敦塔(ろんどんとう)』とともに、叢書(そうしょ)『独和対比襟帯(きんたい)集』の第一冊目として大正6(1917)年に南江堂から出版されました。

この書簡は『鷗外文学の側溝(国文学研究叢書)』長谷川泉著 1981年にて、「鷗外資料十六」の中で『鷗外全集』に未収録の書簡として紹介されています。

書簡の記述は以下の通りです。

<書き下し文>
拝誦(はいしょう)(つかまつ)(そうろう)。「舞姫」ご翻訳、その発行ならびに原文併記の件、差し支えこれ無く候。訳文見本一葉(いちよう)お示しくださり(しゃ)(たてまつ)り候。忙中用事のみお返事申し上げ候。ご寛恕(かんじょ)下されたく候。
 二十七日 森林太郎 小池様

<現代語訳>
お手紙拝読しました。「舞姫」のご翻訳、その発行ならびに原文併記の件、差支えございません。翻訳文の見本を一冊下さり、感謝申し上げます。
多忙のため用件のみお返事申し上げます。お許しくださいますようお願い申し上げます。
 二十七日 森林太郎 小池様

  1. UV Mirador 森鷗外書簡

森鷗外の書簡の公開にあたって

森千里千葉大学大学院医学研究院環境生命医学教室教授、予防医学センター長 (森鷗外曾孫)

森千里 先生

曾祖父・森鷗外没後100年のこの年(2022年)に、『鷗外全集』未掲載の書簡が千葉大学附属図書館より電子化され公開されますこと、誠にありがたく、関係者の皆様に心より感謝申し上げます。

今回、鷗外が54歳当時の書簡を世界のどこからでも見ることが可能になったことで、一人も多くの方に曾祖父の業績について興味を持っていただける機会となれば大変ありがたいことです。

鷗外は1888年(明治21年)9月にドイツ留学から帰国し、小説『舞姫』を1890年1月に「国民之友」誌に発表しました。当時西洋は遥かかなたの国々で、ほとんどの日本人にはそこでの暮らしを想像することさえできなかったのではないかと思われます。そんな頃に、西洋人の女性と日本人男性との恋愛を小説にしたのですから、当時の人々はさぞ驚いたことでしょう。小説は全く新しいテーマを扱っていますが、その文体は文語文で、昔ながらの美しい日本語で書かれています。そのため、『舞姫』は長く国語の教科書に掲載されてきました。

どういういきさつか、小池堅治先生は『舞姫』と夏目漱石の『倫敦塔』をドイツ語訳し、「独和対比襟帯集」として出版されました。漱石はイギリスのロンドンに留学していたのに、なぜ漱石の小説が選ばれたのかわかりませんが、もしかしたら当時から鷗外と漱石が二大文豪と目されていたのかもしれません。

鷗外のジャーナリストとしての仕事がわかる『椋鳥(むくどり)通信』(1909-1913)や、家族が残した記録など読むと、鷗外は若者に希望を託し、若者の挑戦をいつも応援していたようです。見ず知らずの若者が「書生にしてほしい」と自宅を訪ねてきても、自分が在宅していれば必ず面会し、時間が許せば近くの洋食屋に連れていって食事をご馳走したりしていたそうです。また、昔の知識人は皆そうだったかもしれませんが、筆まめで、送られてきた手紙やはがきには必ず返信をしていたようです。今でも時々、当時の職場の部下などに宛てた手紙がご遺族により発見されてニュースになることもあります。

今回公開される手紙も、小池堅治先生が38歳当時の出版物について快諾したことを伝えるものですので、鷗外としてはその後の日本のドイツ文化研究を背負って立つ若者を励ましたかったのではないかと推測します。

ところで、私が千葉大学にご縁をいただきましたのは2000年のことでした。まったく知らない土地でありましたが、当時の医学部教授やOBの方たちから、「君のおじいさんに解剖学を教えてもらったよ」と伺いました。驚いて父に聞いたところ、鷗外の長男・於菟(おと)(私の祖父)は、戦後台湾から帰国後、1960年代に当時の千葉医科大学で非常勤講師として解剖を教えていたとのこと。父が言うには、於菟がドイツ留学から帰国後、当時日本の植民地だった台湾の台北帝国大学に行くか千葉医科大学に行くか二つの道があったのですが、結局台北帝国大学に赴任したとのことでした。妻・富貴(ふき)の残した文章によれば、日本では偉大な父親を持った息苦しさを感じており、台湾に赴任する際は「天かける翼を得た鳥のように」希望に燃えた、とあります。

さて、千葉に住んでみると、鷗外が外房の日在(ひあり)(現在の千葉県いすみ市)に別荘を持っていたことや、軍都であった千葉市の稲毛(千葉大学本部キャンパスのある)にも仕事で来ていたこと、さらには鷗外の父、森静男が幕末に佐倉順天堂(千葉県佐倉市)で学んでいたことなどを知り、先祖からのご縁を感じたものです。

今では小説家としての顔の方が知られている鷗外ですが、医者としても公衆衛生を日本に根付かせるために全力を尽くしました。陸軍では、集団生活で感染症が流行ると多くの兵士が命を落としていたため、腸チフスのワクチンができると、ワクチンとは何か、なぜ有効なのかを、ポケットに納まるサイズで書籍化し、少尉以上のすべての幹部に配布して接種を促しました。『鷗外と脚気』(2013年)という本を私が書きました際に、その経緯を詳しく紹介しました。附属図書館にも収めてありますので、ぜひご興味のある方は読んでみてください。

今回の書簡の電子化をきっかけに、鷗外のそのような面にも光が当たると嬉しく思います。

関連リンク

* 小池堅治(1878-1969)
ドイツ文学者。第二高等学校(現東北大学)、千葉大学、お茶の水女子大学等の講師等を歴任。とくに夏目漱石、二葉亭四迷、森鷗外の作品のドイツ語訳につとめ、鷗外のものは『舞姫』『うたかたの記』『雁』をはじめとして歴史短編小説のほとんどを翻訳紹介した。学問的研究として『表現主義文学の研究』(大正15年 古今書院刊)がある。(『日本近代文学大辞典 第二巻』昭和52年 より抜粋)

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